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■銀鏡(しろみ)の歴史・地勢など■

  宮崎の奥深く、太平洋にそそぐ一ツ瀬川の源流となる銀鏡川のほとり、九州山脈の山懐にいだかれるように、神楽の里・ゆずの里こと東米良(銀鏡)があります。
青い山が連なり「山紫水明」という形容そのままの山里です。
清流「銀鏡川」では山女・鮎・ウグイなどが泳ぎ、棚田で作られる米や、深い山霧にはぐくまれた自家製のお茶も美味しくできあがります。
  銀鏡川の清水で作られた米は、大変おいしく「米に良い土地」が訛って米良になったのが地名の所以だと伝えられています。
米良は明治22年に東西の米良村に分かれました。その後、昭和37年に東米良村は西都市と合併し現在に至っています。
 『神話の国・宮崎・西都』
  その昔、西都の原において『ニニギノミコト』は『イワナガヒメ』『コノハナサクヤヒメ』の姉妹と見合いをされました。『ニニギノミコト』が選ばれたのは、妹の『コノハナサクヤヒメ』でした。恋に破れた『イワナガヒメ』は、鏡に吾が姿を映しその醜さに嘆き悲しみ、鏡を投げ捨てたと伝えられています。
その鏡が飛んで落ちたところが現在の東米良と言われ、『銀鏡神社』のご神体となっており、また『銀鏡』の地名の発祥でもあります。また『イワナガヒメ』は銀鏡神社の祭神でもあります。
 『菊地氏の支配』
  南北朝の時代、肥後の菊池氏は北朝の追討を逃れ、南朝の流れを汲む「一子」を奉じて米良山中に入りました。菊池氏は川沿い・谷沿いに石垣をめぐらし田畑を成し、山を切り開いて焼畑を作りヒエ・アワ・ソバ等を主食とする山村文化を開いたのです。
『能』の原点とも言われる『銀鏡神楽』もこの頃から発達し伝承されて来ました。『銀鏡神楽』は現在、国の重要無形文化財に指定されています。
 『時は流れて・・・』
  明治維新の時『廃藩置県』において領主菊池公は、すべての領地を領民に分け与えました。山を活かし柿・栗などの産地を成すことを勧め、まつりごとを怠らぬ事を領民に託して米良の地を後にされました。米良の山林が他に類がないほど私有地が多いのはその為です。
その頃の米良の特産品と言えば、『木炭(炭焼き)』・焼畑の後を利用したミツマタ・カジ(和紙の原料となるコウゾ)くらいでした。
現在では九州屈指の生産を誇っている『ゆず』ですが、元々古くから山に自生し実っていたものを、自家用として料理にまた化粧水などに利用していました。その自生している『ゆずの木』の中から最良のものを選び出し、穂木をとり接木をして増やしていったのが昭和48年春のことです。
以来、本格的に栽培に踏み切ってから30有余年、試行錯誤を繰り返し病害虫・災害・天候不順などの紆余曲折を経て、成分・香気ともに高品質の『ゆず』を産出することができるようになりました。
 『余談、尾八重トメ女の話』(おはえトメじょ)
  絶世の美女と言われた尾八重トメ女は、年頃になり銀鏡の浜砂家に行儀見習いとして奉公しました。或る日鹿狩りに来た殿様が浜砂家で休憩した際トメ女を見て一目ぼれしてしまい側室に迎えられたと言います。トメ女を失った村の若者が作った唄があります。
彼女は秀でた肌の美しい女性であったと伝えられています。
尾八重トメ女は『ゆず』の種の化粧水を使い、ゆず湯につかって美しい肌を保っていたのではないか。と、遠い美女に思いを馳せる言い伝えです。

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